同窓会余話 ミヨちゃん

同窓会とはふしぎなものだ。

幼馴染の近所の子もいれば、中学でたった1年しかクラスが一緒でなくても親しい子は親しい。ヤマノさんは中学時代はその存在すら知らない人だったけど、還暦同窓会で知り合いそれ以来の付き合い。そんな人が何人もいる。

みよちゃんもその1人だ。

タレントの浅田美代子に似ているので周りは勝手に「みよちゃん」と呼んでいるけど、ずうっと美代子のことは気になっていた。私が国立に住んでいた頃、彼女は吉祥寺にいて流行雑誌のディザイナーや文章を書いていた。当時の私は法律事務所勤務でワンパターンの仕事をしていたので、彼女の仕上げた雑誌を見せてもらい「すごいなあ」とあこがれたものだ。

そんな彼女がある日、「母親の介護の為」東京を離れて郷里に帰った。独身の弟にいつまでも母親の面倒を見てもらうわけにはゆかないと東京を引き払ったのが20年ほど前。還暦同窓会には参加しなかったけど古稀同窓会に参加したみよちゃん。「お母さんどうした?」

というと「聞いてよ」と私の手をぎゅっと握り、話してくれた。

ずうっと介護をしてきたけど登録していた施設に空きが出たので「この春入居させた」という。「だからこうして同窓会にも参加できるよ」、と語ってくれた。「よかったね」というと、「自分ではよかったと思わない」と酔っぱらってるせいもありくってかかるので「よかったんだよ!」となぐさめた。

「そうかなあ、よかったのかなあ、、」

お母さんは90歳過ぎて、ずうっと寝たきりでもう「みよちゃん」が行っても弟が行ってもわからないのだからいいじゃない、と他人は思うのだけど当事者はどうも客観的に見られないらしい。私も酔ったふりをして言ってやった。東京であんなハデな生活をしていたあんたがよくまあヨメにも行かず、古稀になっちゃって、笑っちゃうよね。なんていいながら、いつまでもホテルのロビーカウンターで話し合っていると、

「おい、おまえら早くみんながいる部屋へ来いよ、みんな待ってるぞ」と町の顔役が仕切る。この世代はみんな同じ行動しないとダメらしい。私みたいにマイペースな行動するヤツには少々面倒くさいが、このオセッカイがまたここちよかったりもする。(たまにだしネ)

みよちゃんと話ができてよかった。

  ☆平尾昌章の歌に「ミヨちゃん」という歌がある。♪僕のかわいい みよちゃんは 色が白くて ちいちゃくて・・あの子は高校2年生♪という1960年の歌。私たちは中学生だったけど歌ったような気がする。今、ここまで書いてこの歌の歌手を確認するために調べていたらなんと!作詞作曲歌の平尾昌章さんが今日肺炎で亡くなったとか享年79歳!

https://www.youtube.com/watch?v=w1rAYphd1qc

 ☆みんなが日原重明先生のように105歳まで生きるわけではない、70代で亡くなる人だっているのだから日々大切に生きないと。7月に入り友人(在ベトナム日本人)のお父さんは2人亡くなった。1人は70歳、もう1人は74歳。 逝く日はいつか誰も知らず合掌

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古稀同窓会帰国の旅 終り

私の場合、観光をするための旅というのは思い出せないほど少ない。たいてい誰かに会いにゆくか、何かがあってゆくことが多い。たとえば去年のミャンマー行きも知り合いの日本人友人がミャンマー娘と結婚するというので首都ヤンゴンからさらに国内飛行機に乗りついでマンダレーまで行き花嫁の家にまで行った。イタリア滞在中の昔だけどギリシャのアテネもナカヤマヤスコさんがいたから、訪問したし、スペインのマドリッドもウエダノブコさんが下宿している家に姉のウエダヒロコさんや友人らと訪問した。そんなふうにして行った旅はパリの●〇さん、ペルージアのコシオさん、ミラノの〇〇さん、バンコクのマリコさん、、を思い出す。

そんな感じでハノイ滞在中に知り合った村上在住のエミコさん宅を訪問した。

わたしは新潟県生まれだけれどかつて「上り列車」にしか乗らない私は小千谷は親戚がいたから行ったけど、長岡も県庁所在地の新潟も私には知らない地域、まず縁のない場所であった。だから「村上?どこ?」という感じで地図を見て「山形県に近いのね・・」と知る。

上越新幹線で新潟下車、さらに羽越線特急「ほなみ」(穂波)に乗るそうだ。電車本数が少なく新潟駅で待つこと1時間数分(これじゃまた東京駅へ行けるよ)と思うほど。なんで私はこの駅でこんなにうろうろするんだろうと思うほど旅の荷物を持ってうろうろ、、冬でなくてよかった。そうしてたどりついた村上駅、「改札はどこだろ」と下車した人たちの後をついてゆくと改札に「みゆきちゃん~ん」の声、改札口を見るとエミコともう1人女性が、アヤコせんせー。。

改札通過するやいなや「遠いぃ~遠いよぉ~いなかぁ~」

と遠慮のない言葉をぶつけた。彼女たちは笑顔で「よく来てくれた」「お疲れさまぁ」と優しく声をかけてくれた。さっきのいなかぁ~は撤回したかったがもう戻らず(反省)。。こうして村上市内のエミコ宅でのんびりと3泊4日を過ごす。(内容省略)

でも少しだけ紹介すると、笹川流れという日本海沿いを山形方面まで北上し翌日は、瀬波温泉に浸かって背中の流しっこ、村上大祭へ参加、サケの酒びたしなど魚沼にはないサケ料理を満喫。それにしてもハノイで知り合った人の家に押しかけるなんてやっぱり年齢が近いことと(学年は1コ上)、言い合える相手であったことが大きいと思う。

そうそう、ハノイを出るときに、本名せんせい(マエストロ)に「日本でエミコに会います」といったら「郷里の薄皮まんじゅうをぜひエミコさんに」とご実家からエミコ宅へ送ってくださった。到着した日は日本の三大饅頭の一つである郡山の薄皮まんじゅうを3人で食べながらハノイの話に花が咲いた。

古稀の旅、中身の濃い出会い、再会、思い出いろいろ詰まったいい旅であった。出会った皆さん、お世話になったみなさん、ありがとうございました。

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古稀同窓会帰国の旅⑤

7月4日(火)姪っ子宅で少しゆっくりさせてもらう。テレビでは九州地方の大雨情報が頻繁に流れていた。

そして彼女の母、私の姉にあたる人の家につぐみのクルマで走ってもらう。小学生のころは遠いと思っていた場所が今はクルマですぐついてしまう。自分の人生も長かったようでふりかえればあっけないものだ。

大正14年(1925)生まれの姉は今年92歳。頭のよい人で仕事もできる人だと聞いている。2男2女を厳しく育て上げた人なのでワタシなどこわくて近寄れない存在であったが今はおだやかな高齢者になっていた

長いこと私はこの姉が苦手であった。

しかし自分の母親がベトナムで亡くなりそれから3年も経つと(7月9日が命日)母親を受け入れた人たちのことが知りたくなり、今回思い切って姪に話したら「一緒に行こう」ということになり実現した。

おかげで当時の様子が知ることができた。

製糸工場に働きに行っていたが母親(父の最初の妻)が病死し製糸工場から戻され実家で主婦をやることになったそうだ。弟2人、妹3人の面倒をみたという。あんたのお母さんが後妻に入るというので「一家に主婦は2人いらない」とこの家に縁づいた(嫁いだ)。

こういう話を私と同じ歳の長男と嫁、つぐみの4人で聴いた。

昼食を含めて3時間ほど滞在しただろうか。

みんな暖かく迎えてくれて本当にありがたかった。

それから長岡までクルマで送ってもらい、次の目的地、村上へ向かう。

みなさん、ありがとう。続く

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古稀同窓会帰国の旅④

湯沢を出た後、同窓生の山野のり子さんのクルマで母親の墓参、実家訪問までは前回話しました。地元にありながら中々行けていなかった根小屋の永林寺へ。

ここには日本のミケランジェロと言われる石川雲蝶の彫刻があるのです。この日は大雨注意予報が出ていたのに昼前には雨が上がり青空になりいい天気、お寺の欄間の”天女”を見たときは感動しました。細い目、すらっと高い鼻、桜色という当時の美人要素をもつ天女さまが奏でている楽器はなんとベトナムにもある伝統楽器!(興味をそそるなあ~と見とれました)

昼食後は関根宅へ(彼は去年の魚沼キャンペーンでホーチミンに行った友人)でPCチェックと思ったがネット繋がらず)行き、のり子クルマをおいてみんなで関根くんが運転する大型車で小千谷へ行き姪のつぐみを乗せていざ、出雲崎へと向かう。

今回の私はミケランジェロと良寛さんの里に行くのがユメだったのだ。

関根くんは良寛さんにあこがれたという人でやたら詳しいので、のり子が「運転ができてクルマがあって了解解説ができる人」ということで選ばれたのであった。関根くんありがとう!「彼には去年10月新潟講演会の時にも燕三条から魚沼まで走ってもらったことを思い出した)

良寛記念館からさらに日本海側を北上して

国上山山麓にある、59歳から約10年暮したという庵にも行けたのは関根くんのおかげ

炊くほどは 風が持てくる 落ち葉かな 良寛

の庵だ。夜は小千谷市街に出て「いいこてや」で一献 ここにはやはり去年ホーチミン行きに参加した「とくさん」(ワタシより2歳上)が合流してわいわいがやがや。

つぐみ宅に泊めてもらう

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古稀同窓会帰国の旅③

7月3日(月)昨夜は大雨、朝も雨が残るがだんだん晴れる

女子6人部屋(5人か?よく覚えていない)みんな早起きで5時から温泉のはしごをゆっくりまわる、のち朝食へ。地元ならではの食べ物もありおいしかったし印象よし。しかし楽しい時間はあっというまに去りゆくもの。

ホテルロビーにいると個人で帰る人、暮すごとにまとまって観光に行く人、いろいろ・・

1時間くらいロビーにいていろんな人たちと写真撮ったり会話したり近況語り合ったり、、ベトナムへ行こうと思ってるなんて人も、数人いた。去年同級生がホーチミンに行って「魚沼キャンペーン」をやったのに刺激を受けて「行きたい」というのだ。

100人くらいと話したかなと思う。

山野さんのクルマで母親のお墓詣り。このころになると青空が出てきて雨上がりで緑がきれいでお墓から見る魚野川と17号線沿線の村々、田畑が美しく光っていた。

そして実家へ行ってお線香をあげ兄と話す。

なんかやることをやったという感じでのびのび、ほかの親戚もまわりたかったけど手土産もないし家に上がれば長くなるのですべてカット。みなさん、ごめんなさい。

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古稀同窓会帰国の旅②

7月2日(日)晴れ 午前 ホテルロビーにて1954年に帰国したF田さんの長女E子さんと会う。ロビー、駅前広場、駅の喫茶店、、と場所を移動しながら約2時間以上、さまざまな貴重な話がきけてよかった。

午後、上越新幹線にて越後湯沢へ(東京駅ホームで懐かしき同級生女子らと偶然会う)三田明の歌う「美しい十代」はみんな美しい60代後半になっていた(笑)

その夜は東京都知事選の開票や藤井四段30連覇なるか?気になっていたがイザ同窓会が始まるとその流れの中に入り世の中のことが一切遮断されて一気に昭和30年代へ飛ぶ。顔を見てもわからない、全員が胸に着ける名札を見ても思い出せない、、そんなに友何人もいた。特に男子に多い。しかし、すぐわかる人もいて安心した。きっと個人差だな。

宴会前の記念撮影。

そして宴会会場へ移動してABCDEFGの7組が大宴会場へくりだす。わたしのG組はステージが遠くてよく見えない。堀之内中学校第( )卒業生同窓会

開会、249人に案内をだし(亡くなった人50人以上)今回参加した人は118名が参集した。そんなわけで最初に亡くなった人の名前をクラスごとに発表し黙とう。

乾杯の挨拶は中林くんと女子2人(その中の1人はワタシ)

グラス乾杯の後、大きな赤い杯(大相撲で出るような)にお銚子1本を入れて3人で飲むという面白いやり方

あとはワイワイガヤガヤ無礼講(笑) 2次会 3次会・・まるで修学旅行の再現、、ただし私は大の字になって寝ていたような気がする(笑)

追記 クラスに「みねこ」がいて彼女に朝ドラ見ているか?と聞いたら「見てる見てる」と「ひよっこ」の話題で盛り上がる。彼女は越後交通に入りバスガイドになっていたとか。労働組合でベトナム戦争や合唱の歌声祭典があり武道館へ行ってみんなで合唱したことなどを話してくれた50年以上も前の話を聴けて良かった。みんなそれぞれの人生があるんだろうなあ。。

つづく

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古稀同窓会帰国の旅①

一週間前の日曜日ハノイに戻ってきました。

かぞえてみればたった11日の旅ですが近年にない長旅でかつ内容も濃かったような気がします。そのせいかこれ以上休めないのでハノイに戻ってきて出勤しているもののどこかぼおっとしていて「このまま認知症になるのかしら」と思うほど何もしたくなく人と付き合いたくもなく「何とか会」はすべて欠席、誘われた食事会もお断りしました。

老人性うつ?

いやいや単なる疲労だと思うのですが

気が付けば今日で一週間です。いくらなんでもそろそろ正気にならないと、、というわけで旅の初日6月28の夜に時計を戻します。どうぞお付き合いください。

6月28(水)夕方6時に仕事を終えて匠にて夕食。ビン君に「今晩から日本に行くからしばらく来ないよ」と伝えると「いいですね、楽しんできてください」という。いってくるね。 空港まではロンさんのタクシーだ。いつも同じタクシーだと気が楽。

VN310 深夜便で飛び立つので機内泊(窓側の席だったが隣は福島県の男性)

6月29日(木)晴れ 7:35成田に到着、東京駅まで1000円のバス

初日のメインは大東文化大学の中野亜里(あり)ゼミで講演するためそのまま山手線で大塚駅へ向かい手荷物を東横インに預けて池袋経由で東上線特急で「高坂」下車。K君の出迎えでスクールバスに約7分乗り到着(ここは日本の「ディエンビエンフー」とKくん。なるほど山また山でベトナムが攻めてきた仏軍相手に立てこもった山のようだ。そすがベトナム史を知る人らしい発想。15時から16時半まで教室で講演と交流。

そのご研究室に戻り18時までj大学院たちと交流

6月30日(金)晴れ 午後赤坂見附のアルゴで事務や清算、3時Iさんと東京駅大丸で買い物のち銀座アップル館へ。ここでSさんと合流して約一時間i Pad 設定のことで店内(経ち作業なので相当疲労) ハノイ会に参加の為完成しないまま6:30の八重洲へ移動

6:30 7人でミニハノイ会(メンバーはMさんが設定) 

早く終わったら六本木のアパホテルに宿泊しているNLPを訪ねようと思ったがとてもそんな時間なし(東京は広い)。LPはオランダから日本に出張していて30日は六本木だった。7月1日は早朝チェックアウトだというので止めた。

7月1日(土)曇り Sさんと数年ぶりの再会。BK在住のまりこさんを訪問する日だ。東上線人身事故とかでしばらく運休(東武デパでうろうろ)再開、沿線の都営アパート訪問

続く

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気が付けば古代希の仲間入り

まさか自分がこの歳まで元気で生きるなんて。。

越後で15年

東京で30年

ベトナムで25年

一生懸命生きて気が付けばそういうことで、、

これから同窓会に参加するため一時帰国します。

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おかいこさまの思い出

お蚕さま

といえば小学校低学年時代をおもいだす。田植えを終えたあとの農閑期、家ではお蚕さまを飼っていた。初めはハンカチほどの面積しかない場所しか占めていなかった「虫たち」(うちあたりでは「ぼこ様)ともいった)が、日々大きくなってゆき一週間ほどで畳2枚ほどの場所を取り、あっというまに今も座敷も蚕に占領された。家族のものは狭い物置のようなところに追いやられた。

学校から戻ると桑の葉とりにゆき母を手伝った。何時間おきにかにやる桑の葉をむしゃむしゃ食むおとは豪快であんな虫がいっせいのムシャムシャ食むのだから「ざわざわざわざわ」怖かった思い出がある。雨や夜露朝露の着いた葉を食べると「死んでしまう」か病気持ちになりいいまゆができないだけでなく「いいまゆを汚してしまう」ので気を付けないともとでだけでなく労力すべてを失ってしまうので大人たちは気を使っていた。

そかし、寝る間も惜しんで全員でカイコを育てていた印象は今でも忘れない。

春ご、夏ご、秋ごと年3回は飼ったとおもう。昨日までムシャムシャ音を出していたかいこがある日ぴたりとやめる。そして「やすみ」にはいる。やすみにはいったカイコを藁で編んだ「とく」という中に入れる(のちに紙のケースになった気がする)とその居場所で体の中から糸を吐きだして繭をつくるのだ。

繭が完成すること蚕はサナギになるらしい。

真っ白い繭は仲買人が来て製糸工場へ売られてゆく。これは現金収入になったので農家にとってまさに「おかいこさま」「かいこ様様」であったと思う。わが新潟県の山村の繭は、今思えば富岡製糸場あたりにでも行ったのだろうか。昔はこのおかいこ様が日本の産業を支えていた時代があったのだと後に知る。

ワタシにとって寝る場所を奪われ、家族のものはみんな蚕に支配されたことをこの記事を見ながら懐かしく思う出している。

http://www.asahi.com/articles/ASK6P6R6QK6PUEHF00V.html

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再放送12年ぶり「引き裂かれた家族」

みなさま

以下、謹んでお知らせいたします。

すごい!!!
再放送が決定しました。
なんと12年ぶり、宣伝よろしくお願いいたします。

《番組名》

ハイビジョン特集 引き裂かれた家族 

~残留元日本兵とベトナムの60年~(初回放送2005/08/05)...


《再放送予定》
2017年7月28日(金)午前9:00~
2017年7月29日(土)午前2:15~(深夜リピート)

  《放送波》 NHK BSプレミアム「プレミアムカフェ」枠
※突発的事由により変更・中止等になる場合がございます。
  好評の場合、半年以降後にアンコール再放送が予定されます。

Nhk
  初回放送2005/08/05広告より


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